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第282話 華枝の急病④

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-03-24 18:01:48

 その最上階にある、VIP専用の特別病棟。

 エレベーターの扉が開き、私たちが足を踏み入れると、そこは病院とは思えないほど静かで、高級ホテルのような空間が広がっていた。

 床には足音を吸収する厚いカーペットが敷かれ、壁には柔らかな間接照明が灯っている。

 アルコール消毒液の匂いに混じって、微かに百合の香りが漂っていた。

 ナースステーションを通り過ぎた一番奥。

 特別個室の前のラウンジスペースに、見慣れた姿があった。

「母さん!」

 湊が、声を上げながら駆け寄る。

 革のソファから立ち上がった志保さんは、いつもの完璧な化粧は崩れ、顔色は紙のように白かった。

 着物ではなく、急いで羽織ってきたであろう薄手のカーディガン姿が、彼女の動揺を物語っている。

「湊……」

 志保さんが、震える手で湊の腕を掴んだ。

「祖母の容態は。今、どうなっているんです」

 湊が切羽詰まった声で尋ねると、志保さんは深く息を吸い込み、少しだけ表情を緩めた
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     湊の肩が、激しく上下に揺れる。 冷たい冬の風が温室の中を通り抜け、足元の土を乾燥させていく。「……母さん」 湊が、掠れた声で呟いた。 それは志保へ向けられたものなのか、あるいは天上の由理子へ向けられたものなのか。 おそらく、その両方だった。 志保は、湊の頭を、泥のついたエプロンのままでそっと抱き寄せた。 かつて湊を突き放し、冷酷に接してきたその腕が、今は誰よりも優しく、湊を包み込んでいる。「……おかえりなさい。湊」 志保の目からこぼれ落ちた一滴の雫が、湊の首筋を伝い、土にまみれた作業着へと染み込んでいった。 ◇ 数時間後。 陽が傾き、庭園の影が長く伸び始めた頃。 温室の壁は、不揃いながらも、湊の手によって新しいレンガがまっすぐに積み上げられていた。 湊は、泥だらけになった顔をタオルで拭い、完成した壁を見上げた。 その隣には、満足げに頷く志保の姿がある。「……及第点ね。これなら、春の嵐が来ても崩れないわ」「当然だ。僕を誰だと思っている」 湊の声には、先ほどまでの湿り気はなく、どこか吹っ切れたような清々しさが宿っていた。 湊の腰のポケットには、あの古びた手袋が、大切に仕舞い込まれている。 玄関ホールから、征司が顔を出した。「おーい、兄貴! 志保さん! いつまで泥遊びしてんだよ。会社から緊急の電話が鳴り止まないぜ。……それと、詩織が『お茶が冷めるから早く来い』ってさ」 征司の能天気な声が、静かな庭園の空気を軽快に跳ねる。 湊は、泥のついた軍手をパンパンと叩き、立ち上がった。「行くぞ。……今日は、甘いお茶が飲みたい」「あら、贅沢を言うのね。とっておきの和菓子があるわよ」 志保が湊の先を歩き、玄関へと向かう。 湊は、最後にもう一度だけ、修復した温室の壁を振り返った。 西日に照らされた新しいレン

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     湊がそれを取り出し、土を払う。 現れたのは、一組の園芸用の手袋だった。 それは、志保が今使っているような武骨なものではない。 女性の細い手に合わせた小ぶりなサイズで、丈夫な牛革で作られている。 長年の使用によって、指先の部分は土の色に深く染まり、手のひらの部分には何度も握りしめられたことでできた独特のシワが刻まれていた。 そして、手首の裏側の部分。 そこには、刺繍糸で小さく「Yuriko」という文字が縫い込まれていた。「……母さんの、手袋」 湊の声から、すべての温度が消えた。 震える指先が、その擦り切れた革の表面をなぞる。 志保が、静かに歩み寄ってきた。 彼女の足跡が、掃き清めた土の上に深く刻まれる。「……それは。お姉様が、最後の日まで使っていたものよ」 志保の言葉に、湊が鋭い視線を向けた。「どうして、こんなところに……。捨てたんじゃなかったのか。由理子母さんの遺品は、あんたがすべて処分したと」「処分したと言わなければ、華枝様や龍一郎の目が光るもの。……九龍という家では、死者への未練は弱さと見なされる。お姉様の面影を残しておくことは、あなたを弱くさせる毒でしかないと、華枝様は判断なさった」 志保は、湊の手の中にある手袋を見つめ、静かに、本当に静かに目を閉じた。「私は、その命令に従う振りをしながら、ここへ隠したの。温室の、一番日当たりの悪い、誰にも気づかれない影の場所に。……お姉様が、あなたの成長をずっと見守っていられるように」 湊の手の中で、古びた手袋が小さく震えた。 湊は、その手袋を自分の顔に近づけ、深く息を吸い込んだ。 二十年の時を経てなお、そこにはかすかに、乾いた土の匂いと、優しい花の残香、そして――かつて湊を抱き締めていた母の、確かな温もりが染み付いているような気がした。「……母さんは、いつも手が汚れていた」 湊の独白が、温室

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     志保はすでに、黒い長靴を履き、年季の入った作業用のエプロンを身に着けて立っていた。その傍らには、真新しいレンガが積み上げられ、泥を練るための大きなトロ舟が用意されている。「遅いわよ、湊。朝の光が一番、レンガの色を確認しやすいと言ったはずでしょう」 志保の声は、葬儀の時の慈悲深い響きを鎧の下に隠し、再び厳しい「庭の主」のものに戻っていた。「準備に時間がかかった。……これでも急いだつもりだ」 湊は志保の前に立ち、腕を組んで積まれたレンガを見下ろした。「理屈はいいわ。まずは、そのひしゃげたレンガの破片をすべて取り除きなさい。基礎に砂利が混じっていると、後で必ず傾く。九龍の基盤と同じよ、不純物は一粒残さず取り除くこと」「……言われなくても分かっている」 湊は軍手をはめ、迷いのない動作で屈み込んだ。 破壊された温室の壁。 欠けたレンガを一つずつ拾い上げ、バケツの中へと放り込んでいく。 カラン、コン、という乾いた音が、静かな庭園に響き渡った。 湊の指先が、レンガの粗い表面をなぞる。 砂埃が舞い、湊の作業着の膝が黒く汚れ始めたが、意に介する様子はない。 自分も、近くにあった小さな竹箒(たけぼうき)を手に取り、周囲に散らばった細かいガラス片や土を掃き寄せ始める。 志保は、湊の作業を数歩離れた場所からじっと監視していた。 その背筋は定規を当てたようにまっすぐで、冷たい風に吹かれても微動だにしない。「湊。そこ、もっと深く掘りなさい。由理子お姉様が愛したこの温室は、根が深いのよ。表面だけ繕っても、次の冬には崩れ落ちるわ」 湊の動きが、一瞬だけ止まった。「……由理子母さんは、この温室で何を育てていたんだ」「何でもよ。季節外れの牡丹(ぼたん)や、誰にも見向きされない野の花。あの方は、命の火が消えかかっているものを温めるのがお好きだった。……あなたを、九龍の呪いから守り抜いたようにね」 志保の視線が、温室のひび割れたガラスの向こう側へと向け

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     湊の掌が、じわじわと体温を戻していく。「……朱里」「なあに?」「……まさか、こんな日が来るとは思っていなかった。お祖母様を送り出し、志保さんと話し、君とここにいる。……僕は、ずっと一人のままだと思っていたのに」 湊の視線は、立ち昇る線香の煙を追っている。「九龍という家が、こんなに静かで……温かい場所だと思ったのは、生まれて初めてかもしれない」 湊の指が、座布団の上で私の指をそっと絡め取った。 その力強さに、私は微笑んで握り返す。「これからは、この温かさが当たり前になるわ。お祖母様が、それを一番望んでいたはずだもの」 ふと、窓の外に視線を向ける。 庭の隅。 龍一郎の車が突っ込んで壊れた鉄門の残骸は、すでに綺麗に撤去されていた。 そこには、志保が指示したのだろう。仮の木の柵が立てられ、その足元には、踏み荒らされたはずの地面を覆うように、新しい腐葉土が丁寧に敷き詰められている。 冬の枯れた景色の中に、そこだけが生命の予感を感じさせる、濃い土の色。 湊もまた、その景色を見つめていた。「……明日は、レンガを買いに行こう」「ええ。私も手伝うわ。軍手、二つ用意しておいて」「君の手が荒れるのは困るが……まあ、仕方ないな」 湊が少しだけ困ったように眉を下げ、それから私の肩に頭を預けてきた。 規則的な寝息が、程なくして聞こえ始める。 線香の火が、静かに燃え尽きようとしている。 灰が、一筋の細い糸を描いて、香炉の白い砂の上に落ちた。 窓の向こう側では、冬の夕陽が長く伸び、庭の新しい土をオレンジ色に染め上げていく。 遠くで、庭師の鋏が枝を打つような、乾いた音が一度だけ響いた。 湊の寝顔を横目で見ながら、その額に触れる。 確かな、生きている人間の熱。 私は、静かに目を閉じ、その熱の源に寄り添った。 壁

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     ◇ 出棺の時が訪れた。 本邸の玄関先に、華枝を乗せた棺が運び出される。「親族の方は、お花を……」 葬儀スタッフの促しを受け、棺の中に最後のお別れの花を供えていく。 志保が、震える指先で一輪の白い菊を華枝の胸元に置いた。「……華枝様。わたくし、庭のレンガを、湊と一緒に直しますから。……見ていてくださいね」 志保の小さな呟きが、冬の冷たい風にさらわれていく。 最後に湊が、一房の白い花を手に取った。 彼は棺の傍らに膝をつき、華枝の安らかな顔をじっと見つめた。 その指先が、華枝の白い死装束の襟元を、愛おしそうにそっとなぞる。「……行ってらっしゃい、お祖母様。……父さんと母さんによろしく」 その声は、もはやCEOとしてのそれではなく、ただ一人の孫としての、幼い響きを帯びていた。 棺の蓋が、ゆっくりと閉じられる。 釘を打つ「コン、コン」という乾いた音が、冬の空気に吸い込まれていった。 湊は、立ち上がり、霊柩車の助手席へと乗り込む。 私は、その横で、走り出す車を、深く頭を下げて見送った。 火葬場へと向かう車列。 その後を追うようにして、一陣の強い風が庭の木々をざわめかせた。 見上げれば、冬の空はどこまでも高く、澄み切っている。 雲ひとつない青空に、霊柩車から吐き出された白い排気ガスが、ゆっくりと溶けて消えていく。 ◇ 数時間後。 すべてが灰となり、小さな磁器の骨壷に収められた華枝が、湊の腕に抱かれて戻ってきた。 ずっしりと重いはずのその骨壷を、湊は壊れ物を扱うように、大切に両腕で抱きしめている。 九龍本邸。 主を失った広大な屋敷は、しんと静まり返っていた。 参列者たちはすでに立ち去り、残っているのは志保と、片付けを手伝うために残った征司、詩織、そして私たちだけ。 志保は、玄関ホールの石畳に落ち

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  • 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました   第140話 剛造の魔手③

     難癖だ。言いがかりだ。 でも、その背後に誰がいるのかは、明白だった。 九龍剛造。 湊の叔父であり、あのパーティーで不気味な笑みを浮かべていた男。 彼が、手を回したのだ。 湊と私の仲が裂けたこのタイミングを見計らって、私を社会的に抹殺し、湊を孤立させるために。「……ふざけないで。そんなの、ただの言いがかりです!」「言いがかりかどうかは、裁判で争うかい? ……まあ、あんたらにそんな金も時間もないだろうがな」 男は合図をした。 他

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